














うちが管理しているけど、場所は国有地なので、あまり自由にできない。
父によると、88体あるらしい。
十福地蔵が正式な名前。
地蔵盆になると、提灯を吊るして供え物をする。

父が脳梗塞で入院したとき、レントゲン写真で脳の全体が真っ白になっていて、医者に助かる見込みがないと言われ、その日は面会時間の許す限り、だめもとで、父にいつもの方法(私が若い頃、仕事中に400キロの什器を左足の親指に落としてしまい、親指が半分無くなっていたのを、3ヶ月かけて再生させた方法。)を試したんですが、翌日病院に行くと、医者から新しいレントゲン写真を見せられ、脳の白い部分が全て消えていて、父が奇跡的に回復したと告げられました。
父は人工呼吸器も必要なくなり、記憶障害もなく、意識も回復しており、普通に身体を起こして会話でき、私と母は涙を流して喜びました。
私が父を家に連れて帰りたいと医者に伝えると、医者は、なぜ回復したのか調べたいとか、家に帰る途中で急変するかもしれないと言って、許してくれませんでした。
あきらめて家に帰ると、翌日父が危篤だという連絡があり、取るものもとりあえず、母と私と姉と面会に行くと、父は意識不明で人工呼吸器を付けていました。
その日は朝から、沢山の検査をされたみたいです。
明日の朝まで保たないだろうということで、朝まで側に居ていいということでした。
母と姉が一旦家に帰り、上着と弁当を用意してくる間、私は父の側で、いつもの方法を試していました。
すると父が危篤状態から回復したというので、母と姉が病院に戻った直後、看護婦から、もう心配なくなったから、面会時間は通常の30分以上許可できませんと言われましたが、私達は食い下がり、病室外の休憩室なら、朝までいて良いことになりました。
夜中、休憩室にいた私達の元に、看護婦が一人走ってきて、急いで来てくださいと言うので、私が最初に病室に辿り着くと、父は既に亡くなっていました。
数年後、母が自宅で転んで頭を打ち、硬膜下出血で、救急車で運ばれました。
コロナの時期で、受け入れ先に結構断られ、数時間後に、やっと病院が見つかりました。
頭蓋骨を外して、後日また頭蓋骨を戻す手術をしないといけないが、歳が歳だからどうするかと訊かれたので、私は即答で、時間が惜しいから、速く手術してくださいと伝えました。
手術は成功しましたが、二度目の頭蓋骨を戻す手術の後、コロナなので面会は許されず、看護婦に様子を聞くと、意識はあるが、意思の疎通が出来ない状態で、日に日に衰弱しているということでした。
医者から、点滴だけだと栄養が足りないので、腹部から胃に、直接食物を通す穴を開け、管を通したいと言われたので、このままだと二度と会えないまま別れることになると思い、医者と大喧嘩の末、手術後2週間程で、頭部の手術の傷も閉じきっていなかった母を、即時退院させる許可をもらいました。
医者から、あなたのお母さんは、あなたのせいで、三日以内に絶対に死ぬから!、という捨て台詞をもらいました。
家に連れ帰ると、すごく酷い状態で、私は泣きながら、いつもの方法を試し続けました。
神奈川に嫁いでいた姉に助けを求めましたが、仕事休めないとか、コロナだとかで来れないと言われ、情が薄すぎるだろうと思いながらも、諦めました。
結局母は、家に連れ帰ってから3日以内だったと思いますが、コンビニのたまごサンドを自分で食べれるくらいに回復しました。
退院後一ヶ月以内には、好物だった、私の酢豚と白米を、一人で座って完食でき、2ヶ月以内には、庭の郵便受けまで歩行器を使い、一人で歩いて郵便の確認が出来る程度まで回復しました、
その頃には、母は電話で、入院前と同じように、普通に親戚と会話できるようになっていました。
歩行器を使い、一人でトイレにも行けるようになりました。
一年ほど経った頃、母は食べ物を喉に詰めて、救急車で運ばれましたが、危篤状態を脱すると、コロナなので面会画面越しでしか許可されませんでした。
入院から数週間後、病院に行くと、医者から、母の腸に穴が開いていて、腐った腸が出てきているので、もう助けられないと言われました。
そしてもう助からないので、家に連れ帰って、看取りで最後を迎えるかと訊かれたので、そうしますと答えました。
入院時からでしたが、母は意識はあるものの、何も分かっていない呆けた様子でした。
私はだめもとで、いつもの方法を、毎日泣きながら頭部と腹部に試しました。
一週間ほどで、意識が健康な状態の頃に戻り、普通に意思の疎通が出来るようになったので、お互いに泣いたり笑ったりしました。
しかし医者から、腸が腐っているので、食べ物を与えると酷い苦痛を与えると言われていたので、母は飲まず食わすで、口の中を湿らせる程度でした。
家に連れ帰ってから2週間後、母が元気そうだったので、最後に母が行きたがっていた、服部天神を連れて行ってあげようと思い、退院に合わせて(せめて毎日、近所を散歩させてあげようと)購入していた、10万円くらいのストレッチ状に変形できる車椅子に、母を苦しませないように乗せるため(退院初日に、母をお姫様抱っこで、ベッドから車椅子へ移動したときの、母の苦しみようを見て、二度と一人で移せなくなりました)、ベッドから身体を曲げずに移動できる、布製のストレッチをアマゾンで購入し、姉一家に頼みましたが、誰も助けに来てくれなかったので、悔しくて葬式の参列も香典も断り、今でも関係を絶っています。
当時友人達やいとこ達にも頼みましたが、誰一人助けに来てはくれなかったので、俺に友達は居なかったんだと悟りました。
母が飲まず食わずで一ヶ月後も、母の意識ははっきりしたままだったので、ダメ元で、水を飲ませ、介護食のゼリーを食べさせたら、うまく食べてくれました。
その日、私が母の命を諦めきれなくて、おかゆとか、病人食を作る用のミキサーとか、色々なものを買い込んで、準備していたんだよと伝えると、母はとても嬉しそうだったので、母に見せたら喜ぶかと思い、台所に行き、それらを腕いっぱいに抱えて、母の元に戻ると、母は満面の笑顔に、大粒のナミダを片目に浮かべて死んでいました。

母の米寿のお祝いに、神戸牛のセットと、伊勢海老を通販で頼んでお祝いした。
すごく喜んでくれた。


母の死後、家に居着いた野良猫。
子猫の頃はほとんど白猫だったのに、大きくなるに従い、キジ種の柄が広がってきた。

冬場は、俺の膝にかけた電気毛布を求めて、膝の上で寝てくれる。

冬場は(以下略)。





庭の草刈り後に

勝成57歳。さっきスマホで撮った。

勝成57歳。さっきスマホで撮った。


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